2026/5/29
浮世絵にも登場した浜名湖の鰻、当時の人々はどう食べていた?

浮世絵にも出てくる浜名湖の鰻。当時の人たちは鰻を好んで食べたのか?どうやって食べた?
キュリオす
江戸時代の東海道では、浜名湖の鰻は旅人たちの間でどのように食されていたのか。初期の蒲焼の形や、鯰との関係、江戸・関西の調理法の違いなどを辿りながら、当時の食文化における鰻の立ち位置を探る。
東海道を旅した人々が、浜名湖の今切の渡しを前にして目にした風景は、どのようなものだっただろうか。広がる湖面と、渡しを待つ人々の喧騒。その中に、もし旅籠の軒先から、あるいは道端の店から、香ばしい匂いが漂っていたとしたら。それは、現代の我々が想像する「鰻の蒲焼」の香りそのものだったのか。浮世絵にも描かれた浜名湖の鰻は、当時の人々にとってどのような存在であり、どのように食されていたのだろうか。
浜名湖周辺で鰻が食されてきた歴史は古い。しかし、その食文化が大きく花開くのは、江戸時代に入り東海道が整備されてからだ。浜名湖は、江戸と京を結ぶ東海道五十三次の宿場町である舞阪宿と新居宿に挟まれ、特に新居の関所は江戸防衛の重要な拠点であった。旅人たちは、この難所を越えるために、あるいは越えた後に、地域の特産品に目を向けたのである。この時期、歌川広重の「東海道五十三次」にも、浜名湖の渡し舟と、それを取り巻く風景の中に鰻らしきものが描かれていることがある。ただし、明確に「鰻」とわかる描写は多くなく、当時の旅人にとって鰻がどの程度の普遍性を持っていたかは、絵だけでは判断しにくい。
江戸時代の文献を見ると、鰻の調理法は多様であったことがわかる。最も一般的なのは「蒲焼」だが、現代のタレをつけて焼く形とは少し異なる。初期の蒲焼は、鰻を筒切りにして串に刺し、塩焼きにしたものだった。その形が植物の「蒲の穂」に似ていたことから「蒲焼」と呼ばれるようになったという。醤油やみりんを使った甘辛いタレが登場し、現代の蒲焼に近い形になるのは江戸時代中期以降のことである。このタレの登場が、鰻の風味を大きく変え、より多くの人々に受け入れられるきっかけとなったと考えられている。また、鰻は「うざく」のように酢の物として食べられたり、「うまき」のように卵で巻かれたりもした。浜名湖周辺では、とれたての鰻をそのまま焼いて食す素朴な方法も一般的であっただろう。一方で、鯰もまた、江戸時代には庶民の食卓に上る魚であった。特に泥抜きをして食べられることが多く、鰻と同様に蒲焼にされることもあったという。鰻と鯰は、どちらも泥底に生息し、見た目も似ていることから混同されることもあったが、味や身の質の違いから、次第に鰻がより珍重されるようになっていったのだ。
江戸時代の鰻食文化を俯瞰すると、全国的に鰻は広く食されていたものの、その地域ごとの特色は存在した。例えば、江戸では鰻を背開きにして蒸してから焼く「江戸前」のスタイルが確立されていく。これは、武士の町である江戸において「切腹」を連想させる腹開きを避けたため、という俗説もあるが、実際には蒸すことで身を柔らかくし、より洗練された味を追求した結果とも言われる。一方、京や大阪を中心とする関西では、腹開きにして蒸さずに地焼きにするのが主流であった。これは、鰻本来の香ばしさと弾力のある食感を重視したためだろう。浜名湖の鰻は、東海道の要衝という立地から、江戸と京の双方の食文化の影響を受けつつも、独自の発展を遂げたと考えられる。旅人たちは、江戸や京で食べる鰻とは異なる、浜名湖ならではの素朴な味わいを求めたのかもしれない。また、当時の養殖技術は未発達であり、鰻は天然のものがほとんどだった。そのため、鰻が獲れる場所、すなわち天然の鰻が多く生息する水辺の地域では、自ずと鰻を食する文化が発展していったのだ。
明治時代に入ると、浜名湖での鰻の養殖が本格的に始まった。1897年(明治30年)頃には服部倉治郎が養殖に成功し、その後、他の養殖業者も追随して、浜名湖は日本の鰻養殖の一大拠点へと発展していく。これにより、鰻はかつての高級食材から、より多くの人々が口にできるものへと変化していった。現在、浜名湖周辺には多くの鰻料理店が軒を連ね、その多くが養殖鰻を提供している。東海道を旅する人々が宿場町の賑わいの中で鰻を求めたように、現代の観光客もまた、浜名湖を訪れる目的の一つとして鰻料理を挙げることが少なくない。かつて渡し場があった場所の近くには、今も鰻の香ばしい匂いが漂い、歴史と現代が交錯する風景を見せている。
浮世絵に描かれた浜名湖の風景の中に、鰻を探すことは、当時の旅人たちの食生活の一端を垣間見る試みでもある。当時の人々は、鰻を好んで食べたか、という問いに対しては、現代のような高級食材としての認識とは異なり、地域に根ざした水産物として、より日常的に食卓に上っていた側面があったと言えるだろう。特に東海道のような幹線道路沿いでは、旅の疲れを癒す滋養強壮の食べ物として、あるいはその土地ならではの味として、鰻が提供されていたに違いない。タレの普及によって鰻が広く受け入れられていく過程は、食文化がどのようにして大衆化し、定着していくかを示す一つの例でもある。旅の道中で何気なく口にした一串の鰻には、当時の人々の暮らしや、物流、そして味覚の変遷が凝縮されているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。