2026/5/28
薩埵峠越えの節目、興津宿の栄華と産業の歴史

静岡の興津の歴史について教えて欲しい。宿場町の歴史。
キュリオす
興津宿は東海道五十三次で27番目の宿場として整備され、薩埵峠越えの旅人にとって重要な休息地でした。駿河湾と興津川の恩恵を受け、茶やミカンの産地としても発展した地域の歴史を辿ります。
東海道を歩く旅人が、薩埵峠を越えて興津の里に降り立ったとき、目の前に広がるのは、駿河湾の青と、興津川の豊かな流れが織りなす平野だっただろう。かつて、この地は江戸と京を結ぶ主要街道の宿場町として栄え、多くの人々が行き交った。なぜ、この興津が、東海道五十三次の中でも独自の存在感を放つ宿場として機能し得たのか。その理由を紐解くには、潮風と山風、そして人々の営みが交差した歴史を辿る必要がある。
興津が宿場町として整備されたのは、江戸幕府が成立し、徳川家康が東海道の整備を命じた慶長6年(1601年)のことである。それ以前も、この地は古くから交通の要衝であり、中世には興津氏が支配した湊町としての歴史を持つ。しかし、本格的な宿場としての機能が確立されたのは、街道の整備と参勤交代制度の開始が契機となった。興津宿は、東海道五十三次の江戸から数えて二十七番目の宿場として位置づけられ、西隣の江尻宿(現在の静岡市清水区)と東隣の由比宿(現在の静岡市清水区由比)の間に挟まれる形で発展した。
宿場町の中心には、大名や公家が宿泊する本陣と、その予備的な役割を担う脇本陣が置かれた。興津宿には、江戸時代を通じて西本陣と東本陣の二つの本陣があり、特に西本陣は規模が大きかったという。また、一般の旅人や物資を運ぶ人々のための旅籠も数多く軒を連ね、最盛期には数十軒の旅籠があったと記録されている。宿場には、茶屋や商店、そして馬や人足を提供する問屋場が設けられ、街道を行き交う人々の需要に応えた。
興津宿の歴史を語る上で欠かせないのが、背後に控える薩埵峠の存在である。この峠は、東海道屈指の難所として知られ、旅人は断崖絶壁の道を往来した。現在の国道1号線や東名高速道路、東海道本線もこの地形を避けられず、海岸線に沿って難工事の末に開通した歴史を持つ。興津は、この難所を越える前、あるいは越えた後の休息地として、旅人にとって重要な役割を担っていた。
興津が宿場町として栄えた背景には、その地理的条件と、それによって育まれた産業が深く関わっている。まず、駿河湾に面した立地は、海からの物資の流通を可能にし、同時に豊富な海の幸をもたらした。興津川の河口は天然の良港となり、海上交通の拠点としての機能も併せ持っていたのである。
また、興津川が運ぶ肥沃な土壌は、農業の発展を促した。特に、江戸時代後期から明治時代にかけて、この地域では茶の栽培が盛んになり、興津は良質な静岡茶の産地として知られるようになる。幕末には、海外への茶の輸出が始まり、興津の茶は国際的な評価を得ることになった。さらに、明治以降にはミカンの栽培も広がり、温暖な気候と日当たりの良い斜面がミカン畑に適していたため、興津は「ミカンの里」としても名を馳せる。これらの農産物は、街道を通じて各地へ運ばれ、宿場町の経済を潤す重要な要素となった。
興津の宿場としての機能は、単に休憩や宿泊の場に留まらなかった。薩埵峠という難所を抱えるため、旅人はここで態勢を整え、あるいは旅の疲れを癒す必要があった。そのため、宿場内には様々な職人が集まり、旅の道具の修理や、食料・日用品の補給が行われた。海と山、そして街道という三つの要素が重なり合うことで、興津は単なる通過点ではなく、独自の経済圏を持つ活気ある宿場町へと発展していったのである。
東海道の宿場町は、それぞれが異なる表情を持っていた。例えば、江戸に近い品川宿や川崎宿は、江戸の玄関口としての賑わいを見せ、多くの遊里が形成された。一方、箱根の山中にある箱根宿は、関所を控えた軍事的な要衝であり、その規模は比較的小さかったが、厳しい取り締まりが行われた。
興津宿は、これらの宿場とは異なる特性を持っていたと言える。まず、薩埵峠という難所を越えた先、あるいは手前に位置するという点で、旅人にとっての「節目」の宿であった。これは、例えば中山道の碓氷峠を越える前後の宿場と似た役割を持つだろう。また、駿河湾に面し、興津川の河口を持つことで、海路と陸路が交差する結節点としての機能も持ち合わせていた。これは、例えば同じく海沿いの宿場である東海道の舞阪宿や御油宿といった場所にも見られる特徴である。しかし、興津は茶やミカンといった独自の農産物によって経済基盤を築いていた点で、単なる交通の要衝以上の存在であった。
多くの宿場町が旅籠や問屋場を中心に発展したのに対し、興津は、その背後にある豊かな自然を活かした産業と結びつき、独自の文化を育んだ。宿場としての機能が街道によって規定される一方で、地域の風土がその宿場の個性を作り上げていったのだ。この、交通路と地域産業との密接な連携こそが、興津宿の際立った特徴であったと言えるだろう。
明治時代に入り、鉄道の開通や道路網の整備が進むと、東海道の宿場町としての役割は次第に薄れていった。興津も例外ではなく、多くの旅籠は姿を消し、かつての賑わいは失われていった。しかし、この地が培ってきた歴史が完全に消え去ったわけではない。
現在、興津の旧東海道沿いには、往時の面影を伝える建物や史跡が点在している。例えば、かつての本陣跡には石碑が立ち、その周辺には当時の区画を偲ばせる町並みが残る。また、興津川のほとりには、明治時代に建てられた「清見寺」があり、徳川家康ゆかりの寺としても知られる。この寺の境内からは、駿河湾と興津の町並みを一望でき、かつての旅人が見たであろう風景を垣間見ることができる。
さらに、興津の地域経済を支えた茶やミカンの栽培は、今もなお盛んである。特に、興津地域はミカンの品種改良の中心地としても知られ、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構果樹茶業研究部門(旧果樹試験場興津支場)がこの地にあることは、その歴史の連続性を示している。かつて街道を往来した人々が目にしたであろう茶畑やミカン畑の風景は、形を変えながらも現代に受け継がれているのである。
興津の歴史を辿ると、宿場町としての機能が失われた後も、この地がその場所性、つまり地理的条件と、そこから生まれた産業によって「持続」してきた姿が見えてくる。東海道という大動脈がその役割を終えても、駿河湾の恵みと、興津川が育む肥沃な大地は、茶やミカンといった新たな産業の基盤となり続けた。
宿場町としての興津は、旅人にとっての通過点であり、休息の場であった。しかし、その背後には、海と山の資源を巧みに利用し、街道の需要に応えながら独自の経済圏を築いてきた人々の営みがあった。薩埵峠の難所を越える旅の厳しさと、興津の地で得られる安堵と豊かな恵み。その対比の中に、この宿場町が持つ独特の魅力が凝縮されている。興津の歴史は、単なる街道の一点ではなく、土地の条件と人間の知恵が織りなす、静かな「持続」の物語を語っているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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